クリスチャンとして霊的に成長するために

 

クリスチャンとして、霊的に成長するとき、それは子どもたちが肉体面において成長することとよく似ているのです。 霊的にクリスチャンが成長するためには、肉体が成長するのと同じように、食物、運動、そして時間を必要とします。 神の御言葉は霊的な食物なのです。 さらに御言葉に立ち、行動することが、クリスチャンの内にある霊を高めることにつながるのです。

ある人に神、御言葉についての知識があるという理由だけで、この人が霊的に大きく成長しているとは限らないのです。 私達は神様を個人的に知ることなく、ただ単に知識として知っているということも、起こりうるのです。 知識としての成長が、そのまま、霊的な成長へとはつながらないのです。  

Tコリント 81

「..知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

内なる人の霊が、生まれ変わることを新生と呼びます。 神の霊によって生まれ変わるものが、クリスチャンの内に臨在する霊なのです。 またその人の霊こそが、その人の実際の姿を表しているのです。 

ヨハネ 367

「肉によって生まれた者は肉です。 御霊によって生まれた者は霊です。 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」

あなたは神の御姿にかたどって、創造された、霊的な存在なのです。(創世記 1:26) 

「神はまた言われた、”われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう”」

あなたは、創世記 1:26 ” 神は御自分にかたどって人を創造された”と書かれているように、神にかたどって創造された霊的な存在なのです。 あなたは肉体をもち、思いを持っているのです。 そして、あなたは霊、精神、肉体を発達させることができるのです。 

Tテサロニケ 523

「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」

 

霊的成長を測る

霊的成長は霊的実、すなわち御霊の実の現れによって測ることができます。 私たちは風を直接見ることはできませんが、風の及ぼす影響については見ることができます。 霊的なことがらは、風によく似ているのです。

奇跡や、霊的賜物は確実な霊的成熟さのしるしにはならないのです。 神はある人の霊的成長度の高低によらず、その人に御霊の賜物、奇跡のミニストリーを授けられることのできるお方なのです。 

ある人に御霊の実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)の現れが大きく、また豊かであればあるほど、その人は霊的に強く、成熟していることの証になりうるのです。

ガラテヤ 52223

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。 このようなものを禁ずる律法はありません。」

ガラテヤ 5:22における霊は、直接聖霊のことを述べているのではなく、人の中に働く、霊の働きについてのべられているのです。 この節の文脈は肉のもたらす業と、霊のもたらす業を対比させているのです。

プラスチックの実

わたしたちは霊的生活とは関係なく、人の意志の力によって生み出される ”プラスチックの実”によって騙されないように気をつけてください。 人間の意志の力によって、表面的な実が生み出されるのであって、霊によって生み出されるのではないのです。 見せかけの実は、本物と同じように見えますが、その実が試練に直面するときに、試練に負けてしまうのです。 真の霊の実は厳しい試練にも耐えることができるのです。

本当の霊の実は、周りの人々や、また彼らの行動に依存する必要がないのです。 本当の霊の実は神と共にある生活の結果生み出されるものなのです。

他の人の生活に現れる実(愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制)をひと目見ただけでは、その実が本物か、どうかはわからないのです。 見せ掛けだけの霊の実は、試練の重圧の中をとおると、その実が本物か、どうかがすぐにあらわにされるのです。 本物の実は、燃え盛る試練の中を通っても大丈夫なのです。 プラスチックの実は溶けて、なくなるのです。

枝の中に命が流れるときにのみ、実は成長するのです。 実は一晩では生まれてこないのです、また実を工場で生産することもできないのです。

 

どのように私たちは霊的成長をみることができるでしょうか

 

ある人が霊的であるかどうかをどのようにして見極めたらよいのでしょうか? どのようにして、私たちは自分自身が霊的に成長していることを知るのでしょうか? 

私たちは霊的成長の度合を、霊の実の存在によって知ることができます。 それはすなわち、私たち舌の支配、神の霊による導き、また私たちがキリストの御姿のように変えられていくプロセスにおいて知ることができるのです。 そのことについて、より具体的な解説が下記にあります。

マタイ 71518,20

「にせ預言者たちに気をつけなさい。 彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。 ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。  同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」

「こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。」

もし私たちが肉の目だけで判断するのであれば、簡単に欺かれることでしょう。 また伝道における成功、または霊の賜物の働きを見たとしても、騙される可能性はあるのです。 

Uコリント 516

「ですから、私たちは今後、人間的な尺度で人を知ろうとはしません。 かつては人間的な尺度でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。」

ヨハネ 724

「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」

 

言葉によって見分ける

ヤコブ 32

「私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。 もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。」

ガラテヤ5:23 には自制は御霊の実であると述べられています。 人の語る言葉によって、その人の霊的成熟度を知ることができるのです。 イエス様は ”心に満ちていることを口が話すのです。” (マタイ12:34) と言われました。 

たいていの場合、私たちはある人と多くの時間を共にすごさない限り、その人の心の垣根がないときに語られる、本音を聞き取ることはあまりないのです。

多くの人は意志によって、語る言葉をコントロールしているのです。 またしばらくの間は見せかけの表情を保つこともできるのです。 しかし、問題や、ストレスが立ち向かってくると、彼らのこころのガードが取り除かれ、彼らの口から語られることばによって、真実の霊的状態が露にされるのです。

マタイ 123334,3637

「木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。 木のよしあしはその実によって知られるからです。 まむしのすえたち。おまえたち悪い者に、どうして良いことが言えましょう。 心に満ちていることを口が話すのです。」

「わたしはあなたがたに、こう言いましょう。 人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。 あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」

 

聖霊様によって導かれる

ローマ 814

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

ローマ8:14 に出てくる ”子ども”はギリシャ語の原語によるとただ単に聖書における”子ども”という意味だけではなく、この箇所においては、幼児を意味しているのではなく、成長した子ども、または神の子のことを意味しているのです。 神の霊に導かれることに関しては、あなたが霊的に成長すればするほど、より正しく神の霊に従うことができるようになるのです。

 

あなたがたのうちにキリストが形作られる

ガラテヤ 419

「私の子どもたちよ。 あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」

 

ガラテヤ 220

「私はキリストとともに十字架につけられました。 もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。 いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

エペソ 413,15

「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」

私たちが霊的に成長すればするほど、私たちはキリストのように変えられてゆくのです。

 

クリスチャンは成長するのです

Uテサロニケ 13

「兄弟たち。 あなたがたのことについて、私たちはいつも神に感謝しなければなりません。 そうするのが当然なのです。 なぜならあなたがたの信仰が目に見えて成長し、あなたがたすべての間で、ひとりひとりに相互の愛が増し加わっているからです。」

Uコリント 1015

「私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを誇ることはしません。 ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。」

実際に信仰は増えたり、また成長したりします。 しかしながら、信仰がどれほどあるかを量ることは難しいことなのです。 他人の持ち物や、彼らの業績だけをみて、どちらが偉大な信仰をもっているかを比べ合うことは間違っているのです。  自分自身で信仰がどれだけあるのかということを試すのはかまいませんが、クリスチャン同士で比べあうのは良い事ではありません。

エペソ 415

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」

 

U ペテロ 318

「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。 ...」

コロサイ 219

「頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」

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幼子はまだこの世的なのです

Tコリント 313

「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。 わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。 まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。 相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」

普通の肉感的、あるいは五感にたよる人は霊的な人ではないのです。 肉感的とは、肉体の五感の働きを意味します。 ねたみ、争い、分裂がある場合、人々は肉的な状態の中に置かれているのです。 肉的な働きが表に出る場合、それは赤ちゃんクリスチャンを意味しているのです。

 

神は霊的な切り込み(無駄な部分を取り除く)をなされます

ヨハネ 15125

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

健康的な成長のためには、成長を阻害している無駄な部分を切り込むことが大切なのです。 天の父は、実を結ぶクリスチャンに切り込みをされると言われました。

 

神は神の子を訓練されます

ヘブル 125711

「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。 ”わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。” あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」

「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」

この御言葉における”鍛錬” という語の意味は子どもを訓練するという意味があります。 これらの御言葉は明らかに、霊的成長のためにおこなわれる神の訓練は、いつも喜ばしいことばかりではないということが述べられています。 しかし、神の訓練は私たちにとって有益なのです。 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。 ですから、いつも私たちの周りにおこっていることを、すべて理解することはできませんが、後になって明らかになるでしょう。

 

クリスチャンはどのようにして霊的に成長するのでしょうか?

使徒 2032

「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」

霊的食物と霊的運動によって霊的成長がなされるのです。 神の御言葉は私たちの霊的な食物なのです。 私たちは聖書を読むことをとうして、自分自身を霊的に養うことができす、また聖書の教え、説教を聴くことによってももちろん霊的な食物を得ることができます。

エペソ 41115

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」

 

乳(霊的なミルク)について

Tペテロ 2:2

「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」

ペテロは上記の御言葉を書きました。 新約聖書の中の、他の人物によって書かれた二つの御言葉は乳と成長について述べています。 

ペテロがこの御言葉において述べていることは、ただ幼児が乳を飲むということだけでなく、神のことばの乳によって私たちが成長するということも述べているのです。

御言葉の乳を飲むことによって私たちは霊的に成長するのです。 御言葉から乳を引き出すためにはただ単に聖書を読めばよいというのではありません。 御言葉を良く消化するためには、御言葉にあなた自身が思い巡らせる(瞑想する-目を閉じて深く静かに考えること)必要があるのです。 

Tコリント 3:2

「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。 まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。」

ヘブル 5:1214

「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。」

 

御言葉の実践

 

御言葉に従い、御言葉を行動に移すとき、それはまさにあなたの霊を働かせていることなのです。 あなたがあなたの肉的な考え、理由に支配されるのではなく、あなたの霊に従うとき、そのときはまさにあなたの霊を働かせていることになるのです。 

ローマ 813

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。 しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」

ガラテヤ 51617

「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

異言で祈るためには、信仰を働かさせる必要があります、また異言で祈ることによって、あなたは霊的に高められるのです。 

ユダ 120

「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、」

Tコリント 14414

「異言を話す者は自分の徳を高めますが、...」

「もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、...」

あなたが信仰を用いるときはいつも、あなたの霊を働かせているのです。

ローマ 10:8−10

「では、どう言っていますか。 ”みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。” これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。  なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

ヤコブ 124

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。」

 

イエス様を見上げてください

あなたが木をぼんやりと眺めていたとしても、木は目に見える速さでは成長しません。 ですから、私たちは霊的な成長の度合に、いつも目を向ける必要はないのです。 私たち自身に目を向けるのではなく、イエスにいつも私たちの目を向けるべきなのです。

ヘブル 122

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」

ヨハネ 1545

「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。 同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」

Uコリント 318

「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。 これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

私たちが主を見上げるときに私たちは変えられてゆくのです。 私たちが自分たちの成功、または弱点ばかりに目をとらわれるならば、そのことによって私たちの霊的成長の速度が遅くなってしまうのです。

ガラテヤ 220

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

コロサイ 127

「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」

霊的に成熟した信者は、キリスト無くしては何もできないということをよく悟っているのです。ですから、キリストが私たちの中に住まわれているのです。

聖霊に満たされ、御霊によって歩み、また神の御言葉への従順をとうして、イエスキリストにある命があなたのうちにやどり、流れでるようにしましょう。