決してイシャマエルを産み出してはいけません

 

イシャマエルとは、実在したアブラハムの息子の一人なのです。 またイシャマエルをとうして私たちは、とても大切な霊的な教訓を学ぶことがことができるのです。

ガラテヤ 4:22−24

「そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。 女奴隷の子は肉によって生まれ、自由の女の子は約束によって生まれたのです。このことには比喩があります。この女たちは二つの契約です。一つはシナイ山から出ており、奴隷となる子を産みます。その女はハガルです。」

創世記 16:1,2,15

「アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。 彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。 サライはアブラムに言った。 ”ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。” アブラムはサライの言うことを聞き入れた。」

アブラハムとサライのしたことは、神からの言われたことを忠実に守りとうした行動ではありませんでした。 アブラハムとサライは神の教え、導きに完全に従おうとせず、彼ら自身の力で、神の約束をなんとか成就させようと努めたのです。

 

この世と混合してはならないのです

イシャマエルとは、この世的な方法と(神がご自身が導き、介入しておられない方法)、この世の人たちを用いて、神のためになんとかして、ある事柄を達成、または実現しようとするときに、結果として産み出されるものを表しているのです。

創世記 25:12

「これはサラの女奴隷エジプト人ハガルがアブラハムに産んだアブラハムの子イシュマエルの歴史である。」

肉的(神の介入がない、人間的な方法)な行い、または働きによって、私たちが何か霊的なことを産み出すことはできないことではないのです。 神は、私たちが自分たちの力で何とか努力して、神の御心をもたらそうなどと、考えてほしくないのです。 神がまず第一に私たちに願われることは、私たちが神に純粋に従うことなのです。

 

ではイシャマエルとは一体何なのでしょうか?

イシャマエルとは、あなたのだけの計画、努力で、神の御心を達成しようとするときに産み出されることを表しているのです。

イシャマエルとは、あなたが神からあるアイデアを受け取り、あなたの肉の力、計画だけで、そのアイデアを達成しようとした結果もたらされることなのです。

実は、神ご自身が介入されることなく、私たちが勝手に、自分たちの力で生み出されるものはすべてイシャマエルなのです。

神はあなたを聖霊によって導かれると約束されました。 ですからあなたは神からの導きを受け、神に期待をもつことができるのです。 しかし、あなたに必要なことは絶えず、神を慕い求め、あなた自身が神の御心に歩む道から、外れないように気をつけることなのです。

神があなたに歩むべき道を示された後に注意すべき点は次の二点にあります。

(1) 神が言われことを素直に受け止めてください。  神の言われたことに、あなたの身勝手なアイデアを継ぎ足したり、不都合と思われることを、勝手に取り除いてはならないのです。

(2) あなたの肉的な行い、努力で、神の御心をもたらさないように気を付けてください。

いかなるときでも、人々が神の働きを、自分勝手に助けようとするとき、その結果としてイシャマエルをどうしても産み出さざる得なくなってしまうのです。 神は私たちの助けを必要とされないのです。 神ご自身が私たちに求められるのは、私たちの神への心からなる従順のみなのです。 

ゼカリヤ 4:6

「”権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。” と万軍の主は仰せられる。」

 

忍耐強くあってください

イシャマエルとは、人間によって都合のよい理論や、忍耐のなさから産み出された結果なのです。

アブラハムはイサクを産み出すときと、同じぐらいの努力をイシャマエルを産み出すときにつぎ込んだのです。 私たちにも果たさなければならない役割はあるのです。 私たちはただ、神に従順であり、神ご自身に信頼する必要があるのです。 イサクこそ神の約束の子なのです。 イサクは神の時、神の方法でこの世に生まれてきたのです。

ガラテヤ 4:28

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。」

アブラハムの行動における違いは次のとうりなのです。 一つはアブラハムが神から約束の言葉を何とか自分たちの力と努力で達成できる方法はないものかと、模索している状態であり、もう一つは、神ご自身が語られた御言葉が成就されるのを、アブラハムが忍耐強く待ちつづけるという状態なのです。

時として、神の約束の得るまで、私たちの心に大きな忍耐を必要とする場合があるのです。 神は、人間的視点から見るならば、私たちに与えられる神の約束がほとんど達成不可能なような状態になるまで待たれることがよくあるのです。 このような状態で、神の約束が達成されるならば、すべての人が、私たちの働きなのではなく、神ご自身の絶大な働きによってその約束が達成されたことを認め、知ることになるからのなのです。

 

問題が一人歩きし始める

現在、実に多くのイシャマエルがこの世に解き放たれているのです。 たとえ両親の動機が、どんなに良い場合であっても、神の御心にそった歩み方をしないなら、常にイシャマエルのような問題を引き起こしてしまうのです。

創世記 16:11−12

「さらに、主の使いは彼女に言った。 ”見よ。あなたはみごもっている。男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。 主があなたの苦しみを聞き入れられたから。 彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。」

ガラテヤ 4:29

「しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。」

 

神はイシャマエルを決して用いられないのです

創世記 17:18−21

「そして、アブラハムは神に申し上げた。 ”どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。”  すると神は仰せられた。 ”いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。 イシュマエルについては、あなたの言うことを聞き入れた。 確かに、わたしは彼を祝福し、彼の子孫をふやし、非常に多く増し加えよう。彼は十二人の族長たちを生む。わたしは彼を大いなる国民としよう。 しかしわたしは、来年の今ごろサラがあなたに産むイサクと、わたしの契約を立てる。」

たとえどんなに私たちが、神のまえに私たちの計画を祝福し、用いてくださいと懇願したとしても、神は神ご自身の方法でことをなされるのです。 そのことは、私たちの神の約束への信仰に基づいて、神の御霊が働かれるから御言葉の約束が成就することになるのです。

神はあなたにとっての”イシャマエル”を祝福されるかもしれません(20節)、しかし私たちとってのイシャマエルのようなことが、ただ神の祝福を受けているという理由だけで、そのイシャマエルが神の約束のもの (イサク)と結論づけてはならないのです。

私たちの肉におけるところの計画、戦略、また働きによっては、神の真実なる御言葉の成就にはならないのです。 神は神ご自身の言葉を、神の時に、神の霊によって成就、完成されるのです。