悔い改める

 

悔い改めるということは、すなわち変わるということを意味しているのです。 悔い改めるとは、私たちの考えを変えることなのです、私たちの考えが変わるならば、生活も変わってくるのです。

ヘブル 6:1には死んだ行ないからの悔い改めについて語られています。 このことは死んだ働き、または死を生み出すような働きを捨て去るということなのです。 

ヘブル 6:1

「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。 死んだ行ないからの回心、神に対する信仰」

悔い改めるとは思いを変えることなのです。 それは現実に目覚め、ものごとをありのままで理解しようとすることなのです。 そしてあなたの今までのやり方、生き方における間違った部分を認めることなのです。 このような悔い改めをとうして、私たちの行動が変えられてゆくのです。

悔い改めるとは、過去の生き方、習慣、優先順位、また私たちを支配していたすべてのものを捨て去るということなのです。 悔い改めるとはイエス様を主として受け入れることなのです。

悔い改めるとは、私たちが信じていたすべての他の神々を捨て去り、そしてイエスキリストをあなたの主、また神として心から受け入れることなのです。 (イエス様は他の神々を許されないお方なのです)

 

ギリシャ語での意味

 

”悔い改める”という言葉の原語はギリシャ語で”メタノエオ”という言葉から翻訳されたものです。 

バイン聖書辞書によると”メタノエオ”の文字どうりの意味は、後に受け入れるという意味があります、すなわち、ある人の考えが変わるという意味なのです。 そしてこの ”メタノエオ”の変わるという意味はただ単に変わるのではなく、良き方向に変わるという意味なのです。

キトル辞書によれば、”メタノエオ”の意味は思いを変える、または改心するという意味があります。

 

マタイ 4:17 

「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。 ”悔い改めなさい。 天の御国が近づいたから。”」

マルコ 1:15

「時が満ち、神の国は近くなった。 悔い改めて福音を信じなさい。」

マルコ 6:12

「こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め」

ルカ 13:3

「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

使徒 2:38

「そこでペテロは彼らに答えた。 ”悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。”」

使徒 3:19

「そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」

使徒 17:30

「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」

 

名詞として扱われる

”悔い改める”という単語はギリシャ原語でメタノイヤと訳すことができます。

英語版のヴァイン聖書辞典によれば、”悔い改める”ことの意味は、後で考えを変える、または思いを変えるという説明がなされています。 新約聖書においては特に罪からの悔い改めについて述べられています、それはすなわち罪の道から立ち返り、神のほうに進み出ることを意味しているのです。

ルカ 15:1−21において述べられている、放蕩息子のたとえ話は悔い改めに関することを明確に表現した箇所なのです。 

ヨハネの福音書においては直接、悔い改めについては言及されていません。 しかし、新生に必ずともなう、信仰による、悔い改めによってもたらされる罪の生活から、神中心の生活に立ちかえったのちにもたらされる良い結果と実が、強調されています。 またこの点は他の福音書においては詳しい説明がされていません。 

ルカ 24:47

「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」

使徒 20:21

「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」

使徒 26:20

「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。」

ローマ 2:4

「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」

Uコリント 7:10

「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」

多くの人は悔い改める代わりに、ただ悲しむという間違いを犯しているのです。 Uコリント 7:10 の御言葉が示すように、神のみこころに添った悲しみは、悔い改めを生み出します。 しかし、神との関係からくる悲しみと世の悲しみはまったく別のものなのです。

Uペテロ 3:9

「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

 

悔い改めが与えられる

神が私たちに真理を示してくださらないならば、悔い改めへの土台がないことを意味するのです。 私たちの思いを変えるためには、私たちの間違った方法、生き方に気づく必要があるのです。

Uテモテ 2:25

「反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。 もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。」

使徒 11:18

「人々はこれを聞いて沈黙し、”それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。” と言って、神をほめたたえた。」

使徒 5:31

「そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。」

 

自責の念

”悔い改める”という語のギリシャ原語にはメタメロマイという単語もあります。 メタメロマイという意味は自責の念、または後悔するという意味があるのです。

ブリンガーギリシャ辞書によれば、メタメロマイという意味は悔やむ、または自分のしたことに失望をするという意味があります。 過去の自分の過ちに気付き、自分の心の態度を変えるのではなく、自分のもつ目的を変えるという意味があるのです。

キトルギリシャ辞書によれば、メタノイヤ(悔い改める)という意味は、ある特定の罪に関連して、心の態度を入れ替えるという意味があります。 メタノイヤという単語は、ある人があることがらにたいしての考えを改めるという意味を含んでいます。 メタメロマイという意味は、あることに関して違った思いをもつことを意味します。

自責の念を持つことが即、神を喜ばせることにはならないのです。 自責の念をもつことは、ただ単にその人の気分が変わるだけのことなのです。 自責の念はある人が軽率で、不正な行動をした後、自然にその人のこころに沸き立ってくる感情なのです。 自責の念(あるいは良心のとがめ)により、人は普通、罪の結果による、苦々しい経験をするのです。 しかしながら、悔い改める(メタノイヤ)ことにより、人は罪の束縛から開放され、自由になれるのです。

自責の念は普通、罪にもとづく、愚かな行動をしたのちに、自然に人のこころに現れるのです。 しかしながら、人は神の言葉を告げられる人によって、悔い改めに導かれるよう召されているのです。 

ですから、悔い改めるということは、あなた自身の考え、また行動に深く関連があり、あなたの気持ち、感覚とは関係がないのです。 

悔い改めることは心の思いを新たにすることに大きく関わっているのです。

ローマ 12:2

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

あなたが真理を知り、あなたがその真理を実行するとき、その真理によってあなたは自由になるのです。

ヨハネ 8:32

「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。