神は私たちを試されるのでしょうか?

そのとおりです。 神は私たちをテストされます。 しかし、教科書(聖書)を見てもよいテストなのです。 神の教えである(聖書)の助けを受け、私たちはいつも、神がくださるテストに合格することができるのです。

Tテサロニケ 2:4 

「私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。」

神は私たちが勝利を個人的に心から体験することができるようにとテスト、試練をくださるのです。

神は信仰の中におられ、私たちがすべてのテストに合格できることを神御自身が信じておられるのです。

神はまさに自分の子に自信をもって”出て行って何ができるか、私に見せなさい”という両親のような存在なのです。 神は私たちがうまく試練を乗り越えてくれることを期待しているのです。

神は私たち自身が、神の解放と勝利によって、立ち向ってくる敵や悪い状況を克服できる状況を身をもって体験を受けさせ、信仰の戦いの中に導き入れてくださることをあえてゆるされているのです。

私たちが今いる状況(又は試練の只中)の中においても、神に誠実と忠誠を示すならば、神はより幅広い範囲における責任を私たちに与えられるのです。

神が将来、あなたに与えられる務め、責任が大きければ、大きいほど、大きな試練が今必要になってくるのです。 神は試練をもって私たちを傷つけ、滅ぼそうとされているのではないのです。 神は私たちを、今の段階で試練を通させる理由は、私たちを本当に愛しておられるからなのです。 それは後で、あまりにも重たい責任を負わせられたときに、私たちがプレッシャーで押しつぶされて、恥をかかないためにあえて、まえもって私たちを試練の中を通させて霊的な備えと準備をされるからなのです。

あらゆる学校教育には試験がついてまわります。 それは生徒が学習要領をマスターしたかどうかを試すために行われるためです。

試験は受験する人にとっては必要なことであり、益なことなのです。 生徒はもう、すべての教科を知り尽くして、卒業する準備はもう整ったと考えているかもしれませんが、卒業試験などを通して、生徒が本当に理解しているかどうかという現実が試されるのです。 試験を通して現実の実力と直面せざるを得なくなるのです。

試験は私たちにとっての”パン”でなければならないのです。 (民数記14:7−9)

「イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。 ”私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。 あの地には、乳と蜜とが流れている。 ただ、主にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。 彼らは私たちのえじきとなるからだ。 彼らの守りは、彼らから取り去られている。 しかし主が私たちとともにおられるのだ。 彼らを恐れてはならない。”」

私たちの信仰は試練を通るたびに強くなってゆく必要があるのです。 試練又は試験自体が私たちを強くするわけではありません。 神の言葉を用いて、私たちがその試練を克服するときに、私たちは強くなってゆくのです。

わたしはかつて神はわたしを試練の中を通されないのだと思い込んでいました。 私は神はすでに私の心の状態をすでに知っておられ、私に試練、または霊的な試験を与える必要はないと結論づけていました。 そのとおり、神はわたしたちのすべてを知っておられるのですが、私たちは自分自身のことを良く知っていないのです。 神は私たちが間違を犯させたり、または失敗させたりするような誘惑を与えるようなお方ではないことは真実なのです。 

神は私たちを誘惑されるようなお方ではないのです。 神は悪を用いて私たちを試されるようなお方ではないのです。 

ヤコブ 1:13 

「だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。 神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」

神は私たちが御言葉をもって悪を克服する体験をさせてくださるのです。 

神は悪魔を使って私たちに何かを教え、矯正させ、鍛え上げようとされているのでしょうか? そうではないのです。 しっかりとした両親は子どもにそのような体験させません。

また私が個人的に神は私たちを試されないはずだと考えた理由は、いつ悪魔に対抗して良いか、またはいつ神に従えばよいのかが分からないと考えていたのです。 しかし神が試されるのは悪魔がもたらす誘惑や、試みとは違うのです。 神が試されるのは私たちが神の言葉に従うかどうか、また神に信頼するかどうかを試されるのです。 

私たちはいつも信仰に立って、悪魔とその働きに対して抵抗しなければならないのです。 神の御言葉は必ずそのようになるのです。 しかしいつもその場で瞬間的に御言葉が働くというわけではないのです。

神の御言葉に立った時から、実際に問題に対する具体的な解決、または答えがでるまでの間において、神からのテスト(試験)が成り立っているのです。

詩篇 105:19

「彼のことばがそのとおりになる時まで、主のことばは彼をためした。」

神の言葉がまさに、私たちにとってのテストなのです。 そのテストとは私たちが御言葉を信じ、行動に移すかどうかのテストなのです。

実際には、私たちの生きている人生そのものがテストなのです。 

マタイ 25:14−30

 「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。      さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』 その主人は彼に言った。『よくやった。 良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
        その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
        私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
        だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」

イエス様はたとえ話をもって真理を語られたのです。 私たちは素晴らしい将来のために整えられているのです。

私たちが学び、また成長してゆくためには、必ずテストが必要となってくるのです。 テストを通してあなたはどれほどよくできるかを試されるのです。 もしあなたの成績があまり良くないときは神に助けを求めてみてください。 神の御言葉と祈りに多くの時間を費やしてください。

神はあなたのためにいつもいてくださることをどうか忘れないでください。 神はあなたの味方なのです。 神はあなたを助けるために御言葉、聖霊、御使い、主の奉仕者を送ってくださっているのです。

下記の御言葉は神が人々を試されることを述べている御言葉のいくつかです。

 

旧約聖書の御言葉

創世記 22:1−2

「これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、”アブラハムよ。”と呼びかけられると、彼は、”はい。ここにおります。”と答えた。」

出エジプト 16:4

「主はモーセに仰せられた。 ”見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。”」

申命記 8:2−3

「あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。 それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」

申命記 8:16

「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。」

申命記 13:3

「その預言者、夢見る者のことばに従ってはならない。あなたがたの神、主は、あなたがたが心を尽くし、精神を尽くして、ほんとうに、あなたがたの神、主を愛するかどうかを知るために、あなたがたを試みておられるからである。」

士師記 3:1,4

「3:1 カナンでの戦いを少しも知らないすべてのイスラエルを試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおり。」

「3:4 これは、主がモーセを通して先祖たちに命じた命令に、イスラエルが聞き従うかどうか、これらの者によってイスラエルを試み、そして知るためであった。」

U歴代史 32:31

「 バビロンのつかさたちが彼のもとに代言者を遣わし、この地に示されたしるしについて説明を求めたとき、神は彼を試みて、その心にあることをことごとく知るために彼を捨て置かれた。」

詩篇 11:4−5

「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。 主は正しい者と悪者を調べる。そのみこころは、暴虐を好む者を憎む。」

箴言 17:3

「銀にはるつぼ、金には炉、人の心をためすのは主。」

伝道の書 3:18

「私は心の中で人の子らについて言った。 ”神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ。”」

イザヤ 48:10

「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。」

エレミヤ 17:10

「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」

 

新約聖書からの御言葉

ヨハネ 6:5−6

「イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。 ”どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。” もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。 イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。」

Uコリント 2:9

「が手紙を書いたのは、あなたがたがすべてのことにおいて従順であるかどうかをためすためであったのです。」

ヤコブ 1:2−3

「私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。」

ヤコブ 1:12−13、16−17

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。」

「愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。 すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」