神はプライドを嫌われます

 

神は人を愛しているがゆえに、私たちのもつプライドを嫌われます。   人のもつプライド (高慢、思い上がり) によって、人は神からの助けを受けそこねるのです。

箴言8:13

「主を恐れることは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪の道と、ねじれたことばを憎む。」

アモス 6:8

「神である主は、ご自分にかけて誓われる。・・万軍の神、主の御告げ。・・わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む。わたしはこの町と、その中のすべての者を引き渡す。」

 

プライドがすべての罪の根なのです

プライドこそ、私たちにとって、もっとも深刻で、気付かないうちに陥る恐れのある罪なのです。  

プライドこそ、すべての罪の元なのです。 プライドは、神により頼むことをさせなくし、神から離れさせるのです。 すべての不従順はプライドに原因があります。 まわりの人から受ける、嫌がらせ、いじめなども彼らのプライドに起因しているのです。 他の人の気持ちを汲み取らず、自分勝手な思いを人に押し付けてしまうのです。

 

プライドは邪悪です

マルコ 7:20-23

「また言われた。 ”人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、 これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。”」

Tヨハネ 2:16

「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。」

この世はときあるごとに、高慢な人を社会的に高い位置につかせ、多大な富を与えます。   しかし神はプライド (高慢)は悪であり、人を汚すと言われました。

 

プライドによって人々が何かを受けることが妨げられるのです

詩編 10:4

「悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは ”神はいない。” の一言に尽きる。」

プライドによって人々は自分勝手な道を歩み、神の示す道を歩まないのです。   人はプライドによって、神の助け、助言など、必要がないと考えます。

ヤコブ 4:6

「 しかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。 ”神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。”」

神にある信仰によってのみ、私たちは神の祝福を受けることができるのです。 プライドとは自分自身に信仰をもっていることなのなです。 神に信仰をもってください、あなた自身に信仰もつことではないのです。

 

プライドは人々に問題を引き起こします

箴言 11:2

「 高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある。」

箴言 16:18-19

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。 へりくだって貧しい者とともにいるのは、高ぶる者とともにいて、分捕り物を分けるのにまさる。」

箴言 29:23

「 人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。」

 

プライドのあらわれ

あなたはただ単に忙しいという理由で、聖書など読まなくてもよいではないかと思っておられるかもしれません。 問題の根底はプライドにあるのです。 神の御言葉なしでも、大丈夫だと思う態度に問題があります。 祈りを怠るクリスチャンにも同じ問題があるのです。 彼らは祈りなしでも、クリスチャン生活を維持していけると思っているのです。

プライドと祈りは正反対の立場にあります。 高慢な人はあまり祈ろうとしません。 また祈る人には、あまりプライドがないのです。

 

高慢な人は、いつも失敗を周りの人のせいにします。   このような人は自分の過失を認めないのです。 高慢さを持つ人は自分たちが間違いを犯したなどとは絶対に認めません。   

 

Tペテロ 5:5

「 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」

高慢な人は、周りの人の助言を聞こうとはせず、自分独自の方法で物事を運ぼうとします。

 

Tコリント 8:2

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」

 

もし御言葉に立って行動しないならば それは他の人の意見の上に立って行動していることになるのです。 人の意見が神の御言葉よりも重要だと思っている状態なのです。

例えば、クリスチャンが十一献金、献金をもって神を礼拝しない状態です。   彼らは献金などしなくてもよいと考えますが、根底にある問題はプライドにあります。 自分たちだけで生活してゆけるから、献金する必要などはないと考える姿勢に問題があります。

 

周りの人を批判するの人はだれでも、批判している対象の人よりもはるかに優れていると思っているからです。   またこのような人は、自分たちに、人を裁く権利があると思い込んでいるのです。

 

あなたが他の人よりも優っているということはないのです。 いくつかの点で、他の人と比較して得意、不得意の分野が異なるだけなのです。 人それぞれがユニークな才能をもっており、あなたはいくつかの分野で、他の人よりも優れた点をもっているかもしれませんが、他の分野であなたよりも優れた人は多く存在するのです。   あなたの知らないようなことを、他の人は知っているはずなのです。 そして、彼らは多くの領域であなたよりもはるかに優れた、才能をもっているはずなのです。  

Tコリント 4:7

「 いったいだれが、あなたをすぐれた者と認めるのですか。 あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。」

 

ある人が必要以上に忙しいというのは、プライドの現われです。 ある人は他の人に任せることを嫌い、すべて自分一人でものごとをなしとげようとします。 この態度が、プライドなのです。 このような考えは人々を本当に忙しくさせます。 教会の奉仕であっても、いつも忙しいという状況は、プライドのあるしるしなのです。

 

プライドの意味 (辞書から)

ウェブスターの英語辞典はプライドの意味をこのように解釈しています。

    注:プライドの同異義語

    尊大、横柄、傲慢、思い上がり、自尊心

 

 

何がプライドを人にもたらすのでしょうか?

次にあげる事柄が、プライドをもたらします。 しかし私たちはプライドをもつ必要はないのです。

 

Tコリント 8:1

「次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。」

 

エゼキエル 28:17

「 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」

 

Tテモテ 6:17

「この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」

 

あなたが祈り、伝道していて、神の力が、大きくあなたをとうして働らいたときや、または神があなたの祈りに、驚くべきかたちで答えられたとき、決して高慢になってはいけません。 神こそが偉大なお方なのです、あなたではありません。

 

Tテモテ 3:6

「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」

 

未経験の人、救われて間もない人ほど高慢になる傾向がつよいのです。 このことは経験者ほど、プライドの影響を受けにくいということがわかります。 人というのは長い間、さまざまな経験をつむほど、その過程で失敗した経験も多くなるはずなのです。 失敗以外に私たちのプライドを取り除くものがあるでしょうか。

 

信仰とプライドとの違い

興味深いことに、ある人たちは、クリスチャンを見て、信仰に歩むときの状態とプライドに満ちているときの状態を混同してしまうことがあります。 信仰もプライドも人に自信と大胆さをもたらします。   どのようにして見分けたらよいのでしょうか。

 

もし人の語るスピーチの中心がその人自身に向けられているなら、それはプライドと関わりがあります。   もしスピーチの中心が神に向けられいるなら、その人は信仰に立って語っているのです。 外見的には同じように見えますが、語る言葉、スピーチは異なるのです。

信仰によって歩む人は、御言葉と祈りに多くの時間をつぎ込みます。

しかし、高慢な人はまわりの人に対して関心を示さず、ただ人を機械のように使うだけなのです。

信仰に歩む人は愛に歩みます、なぜなら信仰は愛によって働くからです。 信仰に歩む人は周りの人に向かって、敬意を払い親切心を示すはずです。

プライドと信仰が混在することはあるのでしょうか?

確かに、あるでしょう。 私たちはクリスチャンとして、完全な状態へと、日々イエスキリストのかたちに変えられているのです。 しかし、誰もそこまで到達した人はいないのです。

ですから、信仰に立って歩んでいる人ですら、ある場面においては、プライドがでてくる可能性があるのです。 また逆の場合もあります。

 

ソドムの罪

エゼキエル 16:49-50

「だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌みきらうべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼らを取り除いた。」

神はソドムの町を、性的堕落の理由だけでは滅ぼさなかったのです。 エゼキエルは彼女たちの高慢さのゆえに滅ぼされたと述べています。

 

プライドに満ちた王様

ダニエル 5:18-23

「王さま。いと高き神は、あなたの父上ネブカデネザルに、国と偉大さと光栄と権威とをお与えになりました。神が彼に賜わった偉大さによって、諸民、諸国、諸国語の者たちはことごとく、彼の前に震え、おののきました。彼は思いのままに人を殺し、思いのままに人を生かし、思いのままに人を高め、思いのままに人を低くしました。 こうして、彼の心が高ぶり、彼の霊が強くなり、高慢にふるまったので、彼はその王座から退けられ、栄光を奪われました。 そして、人の中から追い出され、心は獣と等しくなり、野ろばとともに住み、牛のように草を食べ、からだは天の露にぬれて、ついに、いと高き神が人間の国を支配し、みこころにかなう者をその上にお立てになることを知るようになりました。 その子であるベルシャツァル。あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。 それどころか、天の主に向かって高ぶり、主の宮の器をあなたの前に持って来させて、あなたも貴人たちもあなたの妻もそばめたちも、それを使ってぶどう酒を飲みました。 あなたは、見ることも、聞くことも、知ることもできない銀、金、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しましたが、あなたの息と、あなたのすべての道をその手に握っておられる神をほめたたえませんでした。」

だれでもプライドの誘惑に会う人は、当時における、世界の支配者であったネブカデネザル王の述べた言葉に耳を傾けるとよいでしょう。 神がネブカデネザル王に教訓を与えた後、彼は次のように言いました。

 

ダニエル 4:37

「今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。」

 

心高ぶったリーダーを選んではいけません

Tテモテ 3:2,3,6

「ですから、監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、酒飲みでなく、暴力をふるわず、温和で、争わず、金銭に無欲で、」

「また、信者になったばかりの人であってはいけません。高慢になって、悪魔と同じさばきを受けることにならないためです。」

なぜ信者になったばかりの人は高慢になりやすいのでしょうか。 確実なことは、失敗の経験が足りないということが原因です。 私たちは自分の経験をとうして、自分だけの考え、行動も間違うことがあると悟ります。 こういう失敗の経験をとうして、私たちは神に助けと導きを求めるようになるのです。

 

プライドは永遠に続くものではありません

プライドとは真実を適切に理解できない時に引き起こされる誤りなのです。 プライドは無知を表します。 しかし、プライドは永遠に続くものではないのです。