聖書ですか、それとも経験ですか?


あなたはあなた自身の考え、信仰を、神の言われた御言葉を土台にもちますか、 それともだれかの経験によってもちますか。 あなたがどちらを選ぶにせよ、そのことによって、あなたの信じる対象が決まってしまうのです。

実はあなたの考えを支配するものは何であれ、あなたの神となりうるのです。 あなたの経験があなたの神となってもいいのでしょうか。 あなたはあなたの経験が神となりうるほど、経験を正く理解し、決断することができるのですか。

私たちは次のような問題によく直面します。 神の御言葉はある一つのことを言っていても、状況は全く反対のことを言っているときがあります。 聖書は “彼の打ち傷によって、あなたはいやされた” と言っています。 しかし、 実際にはあなたは病に患っているように感じるのです。 聖書には、あなたの必要の一切を満たしてくださると言っています。 しかしあなたは必要が満たされてないように感じるのです。

答えはいったい何なのでしょう? 神はうそをついているのでしょうか? 御言葉は今日においても、通用するのでしょうか? 御言葉は本当に、私たちの生活に役立つのでしょうか?

イスラエル

イスラエルの民もこのことと同じような状況に遭ったのです。 12人のスパイが約束の地から帰還して、その占領すべき土地について、ありのままの状況を報告をしました。 その約束の地を占領するのは、現実的にとても困難に見えました。 しかし神は、このイスラエルの民がその約束の地を占領できると言われたのです。


民数記13:1-2

「主はモーセに告げて仰せられた。 “人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。”」


民数記13:31-33

「しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。 “私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。“ 彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。 ”私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。 私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。“ そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。 私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。」

彼らは状況に目を留め、その地で巨人を見たのです。 彼らの目には、神が彼らを間違って導かれたのではないかと疑問に思えたのです。 しかし実際には、彼らは本当に神を信じ、 御言葉に立って行動するかどうかを神から試されたでした。

あなたはどうですか?

私たちは、今日においても同じような問題に直面するのです。 あなたは神の御言葉を信じて、従いつつ神と共に前進しますか? それともあなたの目に見える状況に振り回されて、明らかに書かれてある神の御言葉を私たちの都合のよい理由で捨てるのでか?

不信仰とは、神の言われた御言葉によって前進するのではなく、 目に見える状況に合わせて前進してゆくことを言いいます。

神は聖書をとうして、あなたがどのような人物であるかを語りました。 あなたはそれを信じますか? それともあなたは目に見えるところから来るプレッシャーによってあきらめるのですか? 周りの状況があなたの人生を支配するのでしょうか、それとも神があなたの人生を支配されるのでしょうか?

あなたの経験は聖書に書かれていることと矛盾するかもしれません。 このことをとうして、あなたはどちらかを選ばなければならないのです。 あなたは神に信頼して、神が問題を解決してくださると完全に信じきることができるでしょうか? それともあなたは、あなた自身とあなたの過去の経験に頼って生きてゆくのですか?

教会の教義

今日の教会における不信仰は、ある人々が神の御言葉と矛盾したことを経験したことに始まったのです。 言い換えれば、彼らの生活においては、たぶん御言葉は効果をもたらさなかったのだろうというのです。 ですから、聖書は書かれてある本来の意味がないのだろうと、勝手に決めたり、もし聖書が本当なら、彼らの経験したことは違っていたはずだと言い逃れるのです。 彼らはなんとかして、聖書の御言葉は書かれているそのままの意味ではないのであるという理由を探し出し、他の人々を説得させようとするのです。 これがかれらの教義となるのです。

なぜ御言葉は彼らの生活に効果を表していないのでしょうか。 私たちはこの非難の根元を見つけ出す必要があるのです。 彼らに非難を負わせさせるべきでしょうか? それとも神に負わさせるべきでしょうか? 神はいったいうそをつかれたのでしょうか? いえそうではありません!

私たち人間は自分たちの間違いを認めたくない性質をもっています。 しかしこれは避けられない結論なのです。 私たちはすべてをすでに知っていると思っているかもしれませんが、 実際には、すべてのことを知っているわけではないのです。

多くの人々は病のいやしは、神の御心であると述べられた御言葉を無視するか、拒否しているのです。 彼ら自身か、もしくは彼らの指導者、先生の知人がいやされなかったことを基に信じている場合がほとんどの状態なのです。

ある人々は御言葉を試してみたが、何も起こらなかったと言います。 ですから、少なくとも彼らにとっては、今日において、神の御言葉は真実であるはずがないと信じているのです。

私たちは自分たちの生活の思考の基盤を、限られた経験上に置いてもよいのでしょうか? すなわち、私たちが御言葉に立って行動したとき、自分たちの考えているようなことが起きるのだろうということを基盤に生活しているような状態なのです。

たとえ誰かが神を本当に愛し、神の働きのために命を捧げたとしても、神は神ご自身のルールをこの人のためだけに変えられることはありません。 多くの人がこの重要なポイントを見失っているのです。 神は秩序ある神です、神は神のつくられた法則にしたがって働かれるお方なのです。

私たちが神から何かを受けることのできる特権は、それは私たちが受けるにふさわしい人物かどうかに関係なく。 それは信仰によって受けることのできる、神からの恵みのゆえなのです。

ですから、もしある誠実な宣教師がガンで亡くなったケースにおいて、今日多くの人は、神によるいやしは、もはや神の御心ではないのだろうとか、 またはもしそのことが神の御心ならば、その宣教師はいやされていたはずであるなどと結論づけてしまうのです。 この状態こそ、教義、または信じることの基盤を経験の上に置いている状態なのです。

経験というものはとても不安定な土台なのです。 神の御言葉だけが、永遠にわたって失敗することがなく、私たちの生活を立てあげるのに確かな土台となりうるのです。



ローマ3:3-4

「では、いったいどうなのですか。 彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。 絶対にそんなことはありません。たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。 それは、 “あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。” と書いてあるとおりです。」

人が何を本当に信じているかを知ることのできるかたは神だけなのです。 人々は私たちが聞きたがっているようなことを考えて、私たちにそのこを言います。 彼らは単純に願っているだけかもしれません。 だれも彼らに、どのようにして神から受け取るかについて、教えたことがないのでしょう。 私たちにはすべての情報がないので、人々を裁く資格はありません。

ある人はなぜ、神はある一定のことをすぐにされないのだろうかと疑問に思っているかもしれません。 神は秩序の神であって、私たちに御言葉を与えてくださいました。 神は御言葉に従って働かれていくお方なのです。

神の御言葉が最終的な権威なのです

聖書は私たちの世的な考えを、改めるために与えられたのです、このことによって私たちは神が考えるように考え始めることができるのです。

ヨシュア1:3

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」

まだ巨人が約束の地の中で生活しているにもかかわらず、 神はイスラエルの民にその土地を与えると言いました。 神の側にたって考えるならば、神ご自身がその約束の地を獲得しなさいと言ったのですから、間違いなくこのことは成就すると神は理解していたのです。

私たちが神と協力関係を拒むならば、神は私たちの生活に物事を成し遂げないのです。 私たちが神の御言葉を信じ、また従うことを拒むならば、神の御心が私たちの生活になされることが妨げられるのです。

このことをいくつかの御言葉が証明しています。 聖書は、神は誰一人として滅びることを望まれないと言っていますが、 実際には滅び行く人々がいるのです。 神は神ご自身が望むようにすべてのイスラエルの民を祝福することができなかったのです。


ヘブル3:19

「それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。」

イザヤ48:18

「あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。」

私たちは神と協力しなければならないのです。

御言葉が私たち裁くのです

多くの人は御言葉が正しいものであるかどうかを確かめるために、御言葉を裁こうとします。 しかし彼らは逆のことをしているのです。 実際は、御言葉が彼らを裁いているのです。


ヨハネ12:46-48

「わたしは光として世に来ました。 わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。 だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」

たった一人であっても御言葉にたって行動し、御言葉はしっかりと働くのだと証明することができます。 何千という人が御言葉を試みて失敗したかもしれませんが、それはただ単に私たちの側が失敗したということを証明するだけのことなのです。

どうか神を非難することはやめましょう、自分たちの行動に責任を持ちましょう。 どうかより理解と見識を深めるために神を慕い求めましょう、 そのことによって、私たちは完全に神の御言葉に立って行動ができるでしょう。


ヨハネ17:17

「 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」

神の御言葉はあなたの過去の経験にかかわらず真実なのです。 あなたが御言葉に完全に、正しく従うならば、御言葉は働くのです。 ただ残された選択は神はうそをつかれたということになるのです。

神の御言葉は私たちを裁くでしょう。 どうか私たちが過去の経験、他人の経験を基にせず、御言葉をそのまま信じて、御言葉にたった生活をしてゆきましょう。